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一乗谷朝倉氏遺跡ー福井県

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場所

朝倉氏と一乗谷について

朝倉氏


 朝倉氏は但馬国の朝倉庄(減兵庫県養父市)の豪族で、その地の名前を由来としています。南北朝時代に越前守護斯波氏に従って入国し、地頭として一乗谷近隣を支配の拠点としていました。戦国大名朝倉氏の初代当主の孝景は1467年の応仁の乱での活躍をきっかけに1471年に幕府から越前守護に関する要望が認められ、以後、氏景、貞景、孝景、義景と5代100年にわたって越前を統治しました。しかし、朝倉義景は浅井長政と同盟を結び信長と対立し、1573年に敗れ、朝倉氏は滅びました。
(参考)一乗谷朝倉氏遺跡パンフレットを元に作成

一乗谷


 一乗谷朝倉遺跡は、今から約500余年前、戦国大名・朝倉氏が5代103年間にわたって支配した城下町跡です。最盛期には人口1万人を超え、京都、大阪堺に続く大都市であり京の貴族や僧侶などの文化人が訪れ、北陸の小京都とも呼ばれるほどの隆盛を誇りました。しかし、天正元年(1573年)朝倉氏が滅亡。一乗谷は信長によって焼き払われました。朝倉氏の滅亡後の一乗谷は旧臣や一向勢による支配を経て、信長に統治されます。信長は一乗谷から約10Km離れた北庄城を北陸の支配の拠点とし柴田勝家に守らせました。その際一乗谷の寺社や商工業者は北庄城下に移されて一乗町などを形成しました。 江戸時代には一乗谷は城戸ノ内村という農村となり、田畑の造成や用水の開削が行われました。その際、一部の遺跡は失われましたが、大半は地中に保存されました。
 一乗谷遺跡の発掘調査は昭和42年(1967年)から開始され、昭和46年(1971年)に特別史跡に、平成3年(1991年)に一乗谷朝倉氏庭園として特別名勝に指定されました。さらに平成19年(2007年)に出土品の内2,343点が重要文化財に指定されました。

(参考)一乗谷朝倉氏遺跡パンフレットを元に作成

見どころ

一乗谷朝倉氏遺跡

一乗谷朝倉氏遺跡

一乗谷朝倉氏館

一乗谷朝倉氏館

一乗谷朝倉氏遺跡パンフレット1

一乗谷朝倉氏遺跡パンフレット1

一乗谷朝倉氏遺跡パンフレット2

一乗谷朝倉氏遺跡パンフレット2

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